長い独り言
こんばんは!
今日はネットでタレントの真鍋かをりさんがご自身のADHD当事者の体験を語っている記事を見付けたので、久しぶりに発達障がいの事に触れたいと思います。
その記事にはこう書かれていました。 当時の真鍋さんはADHD無自覚でありながら、仕事では同じ立ち位置に居られなかったり、忘れ物を繰り返したりと、周囲を困らせ、怒らせてしまい、「やる気がない」「自覚がない」と指摘されてきたそうで、その度に何で出来ないのかと落ち込む日々の中、仕事が辛く感じていたそうです。
真鍋さんも実感している通りADHDという特性は、本当に厄介なもので、ADHDの特性が無ければ、当たり前に出来る事が、とてもハードルが高いように思います。 しかも、うっかりミスが日常茶飯事の自分にとっては、何故当たり前に出来るのか、その感覚は分かりようもなく、だから何故ミスをするのか?と聞かれても、『そういう人なのです』としか言えません。
勿論、気を付けて、自分の中ではミスを減らしてるつもりなのですが、どうやら、ミス多めと判断されてしまうようです。
こんな自分にも特技はあり、強みもあるつもりではありますが、今の日本は、そんなことより何よりも、当たり前のことが出来ない事の方が問題視されるのです。 そして、当たり前の事が出来ても、評価はされません。 自分にとっては当たり前の事ではなく、努力の成果だったとしてもです。
そりゃすれ違いますよね…
でも、その当たり前がズレていることが、すれ違いを生むのです。 『普通に見える』とよく言われますが、だから努力を疑われる事もあります。 『普通に見える』が実に厄介なのです。
真鍋さんはこうも言っていました。
仕事は辛かったけど、投げ出すことが出来ず、救いは、仕事とは別の大学という世界、別の居場所があった事だそうです。 自分も昔から、変わり者で、自分の興味あること以外は全く興味が無かったので、何を話していいのか分からず、会話は相手に委ね気味でした。 勿論、友達は居たけど、何を話して、何が楽しかったのか、あまり記憶に残っていないのです。 もしかしたら、学校という狭い世界だけでは、居場所を作れていなかったかもしれません。
でも、自分にはサッカーという情熱を燃やすものがあって、そのコミュニティーにはサッカーという共通言語がありました。 学校外ではあったけど、仲間も居て、放課後はその人達と公園で待ち合わせをして、暗くなるまでボールを蹴っていました。
あっ、誤解しないでください。 苛められていたわけではありません。 クラスの数人とショッピングモールに遊びに行った時も、ショッピングにあまり興味が持てず、団体行動からひとり離れ、おもちゃ屋で買ったプラモデルをモール内のベンチで作っていました。
それでも、誰かに咎められる事もなく、自由奔放過ぎる行動を許していてくれました。
だから、窮屈さはありませんでした。
今だから分かります。 自分は周囲の人間関係に恵まれていました。
でも、もし、自分の感覚が他の人と馴染めず、孤独を感じている人がいるなら、今身を置いている世界以外にも、沢山の世界があるって事を知って欲しいと思います。 特に学生の頃は、学校やクラスが世界の全てかのように感じがちですが、それは違います。
人は思ったより、色んな人が沢山いて、色んな価値観が存在します。 そして、今いる場所から見えなかったとしても、世界は思ったより沢山あります。 居場所は必ず何処かにあります。
だから、絶対に自分を否定しないで欲しいと思います。
長い独り言、終わります(笑)。
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