誰の為の言葉か

2021年8月17日

今日行った接骨院の待合室でホロコースト揶揄問題について取り上げた記事を雑誌で読みました。

自分はいつも100点満点のテストで一桁を取るほど、社会科という教科に興味を示さず、習ったかもしれませんが、恥ずかしながら、『ホロコースト』という言葉はオリンピックの開会式のディレクターを小林氏が解任された事をきっかけにを初めて認識しました。

差別やいじめ、いけない事だと誰もが分かっているのに、一向にこの世界から消える事はありません。

人が人を勝手に差別し、傷つけ、時には命まで奪ってしまう。 

何故なくならないのでしょう。    

自分が小学生くらいの頃は、体罰や苛めに対する認識が今と少し違っていて、体罰は躾の一環で、苛めに至っては、「苛められる側にも問題がある」と言われた時代でした。                      思い返してみると、自分は注意欠陥障害を持っていたので、忘れ物はショッチュウだったので、忘れ物1つにつきビンタを1発づつされてました。                                  当然脳の癖なので、体罰で一向に直ることなく、ただただ毎日ビンタされていました。           もし、忘れ物を無くすことが目的なら、ビンタという体罰に効果が無ければ、自分なら別の角度からアクションをしていたと思います。                                       指導者の経験を経た今だからこそ、尚更あの時の指導法がビンタの一択だったのか、その担任だった先生に聞いてみたいです。                                           

苛めについても、よく聞く話の中に、いじめを助けると、標的が自分に移るという現象があります。         

もし仮に「苛められる側にも問題がある」とするなら、助けた事が問題という事になります。           

そんな馬鹿な話はない。そう思います。

これは持論ですが、大人が子供を指導する時、大抵は大人は教える側で子どもは教わる側の事が多く、その教えが絶対的な物だと信じているからこそ、良かれと思って、子どもを思い通りに動かそうと、コントロールしようとしてしまいます。                                                    でも、子どもはそれぞれが世界を持っているし、子どもなりの想いがあり、理由があります。               そう簡単には思い通りになりません。 コントロールしきれなかった時、大人は力を使おうとします。                                  

子どもだからと言って、話す事をはしょって力を使おうとすれば、その力に屈して従ったとしても、根本を理解しないままその場が納まってしまいます。                                   その方が大人にとって簡単だという事も、指導者を経験した今だから知っています。

苛めに関しても、苛める理由がある訳ではなくて、苛めたいから標的を見付け、理由は後付けです。       

そして、苛める理由は様々で、相手を脅威に思い潰そうとしたり、自分の自信を守る為優劣を付けたいが為の行動だったり、仲間外れが怖くて自衛の為だったりするのに、そんな自分の弱さを認めようとせずに、理由を付けて、自分を正当化したりします。                                       苛めを咎められて、標的を移すのだって、本当はいけないと分かってて、自分の弱さだって知っているからこその反発のようにも思います。  

自分は、差別も苛めも体罰も、根本は自分の立場を守るための行為だと思っています。                  だからこそ、人を傷つける一言を放つその前に、『この言葉は、誰の為の言葉』かという事を意識しなければいけないと思います。