人は正しい答えを知っている

こんばんは!

今日は友人に頼まれて、友人の子どもの夏休みの手伝いをしてきました。                       宿題なんてみえるの?大丈夫??と、自分の学生時代の成績を知ってる人は心配してると思いますが(笑)、教えたのは、ブリッジやカエルバランス、縄跳び等、勉強ではないので安心してください!

友人の子どもは、現在7才で小学2年生の男の子です。                               彼は、自分と同じく発達障がいと診断されており、それ故周りに理解されにくく、それがトラブルに繋がる事もあるようです。

自分は、彼が4才の時から知っていますが、当時感じたことは、自分を理解される事を諦めて、自分を守るのに必死なんだと思いました。

何でそうなってしまうのか…                                       周りの大人にとっては当たり前の事が、本人にとっては当たり前じゃない上に、(大人にとっては当たり前なので、あまり丁寧に説明してくれません)、大人にとっては、叱られて当たり前の事が、何やっても怒られてしまう感覚に陥り、『自分はダメな子なんだ』とか『僕だけ何をやっても叱られてしまう…嫌われているのかな』そう思えば思う程、ムキになって言い訳をしたり、嘘をついたり、ワザと怒られるようなことをしてしまいます。 

                                                   それが余計に信用を無くすという事なんて見えない程、ただ必死にです。                   言い訳がしたいわけでも、嘘で騙したいわけでもなく、怒らせたいわけでもありません。             そうやって必死に守っているのは、きっと自尊心なのだと思います。

綺麗ごとと言われるかもしれませんが、よっぽど世の中を恨んだり、人を憎んだりしない限り、人は人を傷つけたいとは思いません。                                            きっと人は正しい答えを知っています。                                    その事を前提に話を聞けば、どこにその言動の原因があるか見えてきます。

今日一緒に夏休みの宿題に取り組んだ彼とは、中々時間が作れなくて、会う機会もそんなに作れていせんが、それでも、会うたびに、会えて嬉しいという事を不器用だけど、体を目一杯使って、上がりっぱなしのテンションや拙い言葉で表現してくれます。

学校では相手の気持ち上手く汲取れず、トラブルになってしまう事も多いようですが、そんな感情だだ漏れの彼が、人を傷つける為に意図を持って行動するとは考えにくく、恐らく自分の思いが伝わらなくて、もどかしさや憤りが行動に表れてしまうのだと思いました。

ここで、少し自分の幼少期の話しをします。

今から30年以上も前の事ですが、自分が暮らす地域では、(頻度は定かではないですが)月に一度くらい、各家庭の粗大ごみや資源ごみを集会所に集めて、業者に回収に来て貰う取組みをしていました。            

だから、ゴミ回収の前日は、集会所に持っていく用意として各家の前に粗大ごみや資源ごみが置いてあり、地域ではおなじみの光景でした。

あるゴミ回収日の前日、あるご近所さんの家の前にガラス張りで木製格子の建具が置いてありました。        ゴミ回収に出すのだとすぐに分かりました。                                       だから、自分の中ではもう『使わないもの』でしかなく、つい閃いてはいけないことを思いついてしまいました。                                                「あの格子の□の中に石を投げて、ガラスを割ろう!」とても楽しいゲームを思いついたようで、とてもワクワクしました。

だから、悪い事だと自覚なんてある訳の無いまま、母の目の前でガラスを掴んで投げました。              

大人の常識からかけ離れたまさかの行動に、母もとめる暇もなくただ唖然とした後、自分の首根っこを引っ掴んでそのご近所さんのチャイムを鳴らし、「謝りなさい‼」と、それはもう凄い剣幕でした。

母の剣幕とは相反してご近所さんは笑って許してくれました。                          その時の自分の心境は「ほらね!要らないものなんだから許してくれたでしょ!」です。

自分で言うのもなんですが、全くタチが悪い。                                 例え要らなくなったものでも、割って散らかしてしまえば、片付けも必要になりますし、片付ける最中にガラスで手を傷つけるリスクも生じ、ゴミ回収で人の手を傷つけないように養生もしなくてはなりません。

そうです。                                                         当時の自分に足りなかったものは想像力でした。

恥ずかしながら、その事に気付いたのは、社会に出て、散々揉まれ、自分が知らない誰かの事を思い作業をしたり、また逆に自分が気付いていなかっただけで、当たり前だと思っていた事に誰かの存在を感じたりして、感謝の意味を理解してからでした。       

大人になってふと、その幼少期の事を思い出して母に「あの時、怒られた意味が分かった」というと「今頃分かったの?」と言われました。                                        あの頃の自分は悪い事をしたなんて自覚がなかったし、怒られてもピンと来ていないのに、母の剣幕に押されて言われるがまま頭を下げただけでした。

その時も相変わらず悪気のないまま、「えーその時説明してよー」と毒づいてしまったけど、もし自分が、この彼や色んな人との関りを持たないまま年を重ねていたら、大人の当たり前が理解出来ずにいた幼少期を思い出すこともなく、大人の理屈で結論だけを子どもに押し付ける指導者になっていたかもしれません。

大人だとか、子どもだとか、まして地位や立場など関係なく、先入観を捨てて人と関わることは、色んな疑問や気付きをくれて、とても貴重な学びの時間になります。

宿題を教えて欲しいと頼まれて、一緒の時間を過ごしましたが、教わったのは自分の方かもしれません。