意味を残す指導

新規事業の計画書を作成する為に、資料集めをしていました。

色々な角度からニーズを拾おうと、検索ワードを変えながら、ネットを検索していると…

見えてきたのは、「発達障がいの子どもに習い事をさせたいのですが、何がいいですか?」という、発達障がいに対しての、どうしていいか分からないという漠然とした不安と迷いと必死さでした。

発達障がいのある子どもを持つ保護者がこれほど習い事に必死になるのは、やはり、哀しいかな、発達障がいを劣勢と捉え、「少しでも特性を軽くしたい」とか「普通の子に負けない様に生きて欲しい」という切実な願いなのだと思います。

親になったことはないので、親の気持ちは分かりません。                        でも、当事者からしてみれば複雑で、、、                                                 

どう感じるか。なんて、その保護者本人の自由だし、色々な意見や価値観があってこそ成り立つ、自由な世界だし、まぁ仕方ないのだけど。

ひとつ言える事は、発達障がいの特性は、治らないし、治すものではありません。                           ただ、自分のやり方を見付けさえすれば、その特性は、周りが問題視するものでもなくなるという事はあると思います。

なんて言うのか…                                                     例えば、発達障がいの特性を持たない子は、先人の知恵を活かすことが出来るので、自分を操縦する為のマニュアルがある程度存在するけど、発達障がいの特性がある子は、少数派(しかも発達障がいの特性は多種多様)であるが故に自分の操縦の仕方を自分で試行錯誤しながら、身に付けなければならないという事で、それにはとても時間がかかります。                                           発達障がいは、大人になれば落ち着くこともあると言われるのは、多分、自分なりに自分の操作の仕方を学んでいくからだと思います。

だから、子どもの頃なんて、『何かよく分からないけど自分だけが怒られる』状態になるのです。

どんなに大人が正論をもって怒ったとしても、伝わっていなければ、子どもにとっては『怒られた事実』だけが、記憶の中に残るのです。

実際、今自分が幼少期を振り返っても、自分だけ真冬の体育の時間に体操服の上に上着を着る事を許されなかったな…とか、よくビンタされて凄まれたけど一体何でだったんだろう…とか、そんな怒られた場面ばかり残って、何が伝えたかったのかなんて、一切残っていないのです。

目的は、凄んで、子どもをコントロールすることですか?と思わずにはいられません。           こんなこと言ったら身も蓋もありませんが、ただ怒ることが教育だというのなら、そんなの意味なくないですか?

自分は、指導者として、ちゃんと意味が子どもの中に残るような、そんな指導がしたいと思います。