卵が先か鶏が先か

先日TVでADHDの特性に悩み、心を閉ざした少年と介助犬になれなかった犬が触れ合いを通して、変化し成長する様を本人の経験談も交え紹介していた番組がありました。

ADHDの特性により、周りに馴染めず、心を閉ざしていた少年が、ある一匹の犬と出会い、不登校から高校入試を決意し、その目標をクリアし穏やかな日常を手に入れたそんな内容でした。

犬との出会い、触れ合う中で、ADHDの特性が緩和される…                                 そんな事例は珍しいと専門家と呼ばれる先生が話していました。

人は、余裕がなくなれば、ミスが増えるのは、どんな人間でもきっと同じはずです。

心を閉ざせば、コミュニケーションを取るのも下手くそになるのも当たり前の話しです。

振り返れば、自分も社会に出て数十年、環境により自分のパフォーマンスはかなり左右されました。

だから、会社によって、面白いほど評価は分かれました。

振り返れば、それは単純に職種の向き不向きだけではなく、自分を信じて認めてくれているという安心感が自分の力も個性も伸ばしてくれていたのだと思います。

だから、ADHDという特性に勝手に優劣つけて、『サポートする』『特性が緩和した』などと言われるのは、当事者からすれば、『いったい誰の目線でどの立場でものを言っているのか』と思う事も正直あって、ただの感動の物語で終わって欲しくないと思います。

だって、考えてみれば、生まれた時から心を閉ざしている奴なんていやしないし、じゃあ心を閉ざさせたのは一体何なんだという話しになる。

自分も、多くの子どもたちと接してきたけど、いつも子どもが荒れる時は、周りの大人がその子に寄り添う事もしないで『ダメな子』と決めつけて、その価値観が子どもにも伝わり、理解者が居なくて心を閉ざしてしまう時だから。

卵が先か鶏が先かじゃないけれど、ADHDをハンデと捉え、その特性を緩和させたという事ばかりにピックアップしているが、じゃあその子を追い詰めたのは何だったのかという所を追求しなければ、多様性のある社会など絶対に作れない。

ただ、間違えてはいけないのは、誰が追い詰めたのかという犯人探しなのではなくて、目的は感覚の違いを擦り合わせるという事。

勿論、多様性を求める社会づくりじゃなく、カースト制だのなんだのって社会が作りたいなら話は別だが、多様性を求めると言いながら、ADHDの特性を緩和し(何をもって普通というのかは分からないが)『普通の人と同じように』を求めるなら、結局は一方が妥協するという事になっていまう。

誰かの価値観を変えたり、ましてや誰かの人生を変えたりする力なんて、自分には無いけど、出来る範囲で伝えて行きたくて、今日こんな内容を書いてみました。