『障がい者枠』が守るものと奪ってしまうもの

自分が働く職場の仲間には、障がい者と振り分けられ『障がい者枠』で働く仲間がいます。

なるほど、確かに人間関係やコミュニケーションの取り方は不器用なのかもしれません。

そんなある日、自分が少々しんどい力仕事をしている時、通りしなこっちを見ていて、何か言いたげだったので、何か困っているのかと思い「どうかしたの?」と声を掛けるとオズオズと「あ…、やりましょうか?」と声を掛けてくれました。

棚の掃除を頼めば、十分すぎる程ピカピカにしてくれるし、頼んだことに真面目に取り組むけど、仕事を振る時は細部までしっかり指示しなくてはいけないと聞かされていて、だから勝手に状況判断が出来ないのだと思い込んでいたけれど、どうやらそうではないらしい。

確かに

一人でやるには大変そうな作業をしている                               ↓                                                   手伝った方がいいけど、声掛けていいか分からない・・・                            ↓                                                    こちらから声を掛けて初めてアクションに繋がる

と、決してスムーズではないけど、自分がするべき行動は分かっていて、足りないのはアクションを起こすキッカケがまだ自分では作れないというだけで、状況判断が出来ないというわけではないのだと分かりました。

しかし、状況判断が出来る・出来ないは経験によるところが大きいと思うだから、機会が与えられなければ、経験なんて積みようがありません。                                   『障がい者枠』という枠は、障がい者を守る為にあると言いながら、一方では成長する機会を奪っているにかもしれません。

因みに自分は障がい者枠ではありませんが、自分の脳みそは自閉症傾向のあるコテコテのADHDです。

障がいっていったい何だろう・・・

そう思わずにはいれません。

やっぱり障害は、人の心が作り出すものでしかないのだと思います。                    とは言え、心のバリアフリーはそんなに簡単ではありません。

何故なら、何かを推し量る時、人は自分の経験の中で判断していて、その価値観が普通なのだと思ってしまうからです。

そういう自分もフラットな気持ちを心掛けているけど、今行われている北京オリンピックで疑惑の判定が話題になるたびに「やっぱりな」なんて思ってしまいます。

まだまだ自分が目指している理想には程遠いようです。                               なれない自分になれなくて葛藤する日々はまだまだ続きそうでが、諦めずに目指そうと思います。