使命

今日も子ども発達障がい支援アドバイザーの勉強をしました。                                    多分、基準の予定よりかなりのハイペースで進んでいて、気付けば後半の実践編を3日で一気に学習していました。                                                         なんせ、当事者ですからリンクすることも多く、なんとなく感じていたことが語源かされている内容なので、そんなに頑張らなくても、自分の中に落ちていきます。

ただ、今日の学習の内容の中に親の心のケアという内容が含まれており、発達障がいという特性の子どもはおろか、子育て経験もないので、『これが世間一般の親の心理なのか』と、複雑な気持ちになりました。

そこには『発達障がいという診断を受けて、ショックを受けない親はいない』とあり、そのことを受容する為の対処法や寄り添い方などが書かれていました。

受容のステップには代表的な理論として、『階段説』と『慢性的悲観説』があるそうです。

階段説とは簡単に言えば、診断時のショックから否認・悲しみや不安等ネガティブな感情と向き合いながらも、子どもの成長と共に一喜一憂しながら徐々に受容していくというものです。

そして、慢性的悲観説は、発達障がいであると診断を受けた親は、その後絶え間なく悲しみが続くという説です。

当事者からすれば、その後絶え間なく悲しみが続くという説は、何だか全否定されているようで、納得いきませんが、なんせ親になった経験が無いので、どう感じるかは、その人の自由であるべきだと思います。

なにより、人が何を感じるかなど、強制のしようもないのです。

確かに発達障がいという特性を持っているという事は、一筋縄ではいかない事が多々あるし、人生も決して平たんなものではありません。

でも、少なくとも、その平たんでは人生を選択してきたのは紛れもなく自分自身であるし、その全てが、今の自分を確立する為には、なくてはならない経験だったと思います。

そして今はっきりと言えます。                                                    自分は、自分らしくあることを誇りに思うし、それなりに楽しくやれています。

だから、その診断名だけに振り回されて、その子の本質から目を背けないで欲しいです。                     とは言え、絶望したくてしているわけではないのでしょう。                                                 自分は、発達障がいと診断された子どもやその親が、絶望しないで済むような生き方をしようと改めて思いました。                                                           多分それが、発達障がいという特性を持って生まれてきた自分の使命であると思います。