当たり前のジレンマ

今月から、子ども発達障がい支援アドバイザーという資格取得の為、勉強をしています。              この講座は、『理論編』と『実践編』の2つのパートに分かれており、先日理論編の添削課題の提出が終わり、本日から実践編の学習に入りました。

実践編では、体験例を交えながら、より具体的な事を学んでいます。

学びながら、ついつい我が人生を振り返ってしまうのです。

自分自身、ADHDと自閉スペクトラム症を抱えながら、生きてきたわけですが、確かに平たんではなかったのですが、曲がりなりにも何とか無事に生きてきました。

発達障がいと一口に言っても、その特性は様々で、しかも見た目では判断できません。                          だから、100人いたら100通りの躓きと、100通りの原因があるので、例え問題行動という結果が同じでも、そ『この子はこの方法で対処できたから…』と一括りにしてしまうと、まったく上手くいきません。

でも、共通して言えることは、周りの人が当たり前に出来ている事が、自分だけには出来ないという事なのです。                                                     その当たり前の事が出来ない事こそが、誤解やすれ違いを生むことになるのです。

人は、当たり前の事が出来ても、誰も褒めてくれません。                                    だって、出来て当たり前ですから。

人は、当たり前の事が出来ないと、必ず怒ります。                                            だって、出来て当たり前ですから。

なんだよ、その当たり前って…                                                      何度も思った事があります。                                          想像してみて下さい。                                                その当たり前に出来る事が、自分にとっては、かなりの月日と努力が必要だったとしても、負けずに挑んで乗り越えた出来事に対して評価は『やっと出来るようになったの』なのだったとしたら、努力は苦痛でしかなくなります。

今は、その当たり前というものに対しての違和感を言葉として表現することが出来るようになりました。

でも、子どもは言葉として表現することが難しい場合く、その結果が、問題行動として表れてしまうのです。                            

本当は、その問題行動としてしか表現出来ない子どもたちひとりひとりに寄り添い、周りの人にいちいち伝えたいのが本音ですが、自分のキャパはそんなに大きくありません。

だから、こうして発信することを選んだのです。